勝手にクリスマス・エクスプレス2010(2/3)

後期の授業が始まって以来、試行錯誤を重ねながら少しずつ作業を進め、クリスマス直前にようやく作品が完成した。院生が各自1本つくったから、全部で3本できあがった。

美大や専門学校ではなく人文社会系の大学院生が製作したものなので、もちろん技術的に拙い部分があるのは否めない。撮影機材は、各自手持ちのデジタルビデオカメラ、ケータイの動画機能、デジタル一眼の動画機能とさまざまであり、それをパソコンに取り込んで編集した。そしてみんなで試写会。いずれの作品もすごくおもしろかった。

各作品の設定や物語をまとめておこう。

▼作品1:
高校時代に仲の良かった女の子二人が、数年ぶりにクリスマスイブに会うことになった。しかし数年間メールのやりとりだけで維持された関係だっため、直接会うと、どこかうまくいかない。ささいなことで行き違いを重ね、双方に苛立ちがつのるばかり。もう帰るねといって去ってゆく女の子A。せっかくの再会だったのに、なぜこんなことになっちゃったのかと落ち込む女の子B。そのとき、近くの女子高生たちが「また明日ね!」と陽気に別れてゆく場面が目に入る。まるであのときのわたしたちのよう。しかし、いまのわたしたちに「また明日」はない。そう気づいた女の子Bは、あわてて走りだす。駅構内を抜け、階段を登り、ホームへたどり着く。息をはずませる彼女。目の前を、女の子Aを乗せた新幹線が無情にも走り去ってゆく。

▼作品2:
クリスマスに思い出の場所東京タワーでデートをしようと約束していた遠距離恋愛中のカップル。しかし彼女のほうが熱をだしてしまい、予定はキャンセルせざるをえない。連絡をうけた彼は、一瞬がっかりするが、すぐに気を取り直し、そのまま新幹線に飛び乗る。しかし、そのことを彼女は知らない。ベッドのうえで、こんな日に熱をだしたじぶんを責めたりして、ひたすら悶々としている。ベッドの脇には、かつて東京タワーで彼と一緒にとった写真。そこへメールが入る。そこには「もうすぐ東京」と書かれており、写真が添えられている。新幹線の新橋駅あたりでビルのあいだからチラリと見える、ライトアップされた東京タワーが映っていた。

▼作品3:
遠距離恋愛中のカップルがささいなことから喧嘩をした。しかも明日はクリスマスイブ。久しぶりに会える予定だったのに、それもフイになってしまった。手帳の12月24日の欄を黒く塗りつぶしながら、なぜこんなことになったのかと自問する彼女。ツイッターでつぶやく。すると次つぎと、意地なんか張っていないで会いに行きなさいよ、というツイートがつく。そのコメントに背中を押され、彼女は家を飛び出す。約束の時間まで、あとわずか。にぎやかなクリスマスイブの街を抜けて駅へ。山手線に乗る。彼が来てくれているかどうか、それはわからない。彼にメールを送ろうとケータイを開きかけるが、考え直して、閉じる。賭けてみることにしたのだ。山手線の車窓に、新幹線が飛び込み、走り抜けてゆく。まもなく東京駅だ。

こうして並べてみると、3本とも「すれ違い」をどう扱うかという点が、状況設定や物語構成上のポイントだったことがわかる。

作品1は、恋愛ものではなく、遠く離れた友人関係。しかもそれが、メールだけに媒介された長いインターバルをおいたのちに、直接対面する状況になる。そのさいに生じる気持ちのすれ違いに焦点をあてた。すれ違いもののお決まりのパターンであれば、最終的に両者が「わかりあえる」ような結末を描くのが定石であろう。だが議論の末、そうした予定調和は嘘っぽくなるというので、すれ違いが解消されないまま終わるというストーリーにした。

作品2は、恋愛関係にある男女の「すれ違い」が結末において解消されるという点で、3本のなかではいちばんオーソドックスかもしれない。これについては後述。

作品3もまた恋愛における「すれ違い」ものである。ここでも、両者のすれ違いが最後に解消されることで観客に安心を提供するような予定調和は、やめることにした。作中の彼女は、ネットの媒介によって、彼女は、約束の時間に約束の場所をめざそうと決心する。それは、ひとつの「賭け」である。彼のほうもまた同様に来てくれるのかどうかという保証は一切ないからだ。作品のなかで、彼女の「賭け」が成就するかどうかまでは明言されない。焦点はあくまで、彼女自身が「賭け」に出たことにある。

1990年代初頭と20年後の現代とあいだで決定的に違うもののひとつが、情報メディア環境である。オリジナルのクリスマス・エクスプレスの物語パターンは、『哀愁』や『君の名は』に典型的に見られるような「すれ違い」ものであり、それには待ち合わせにおいて不可抗力の物理的行き違いが原因となることが不可欠だった。しかし、現代ではそのような「すれ違い」ものを成り立たせるのはひじょうに困難である。よくいわれるように、いまやケータイやスマートフォンなどをとおして、いつどこでも常時連絡可能な状態にあるからだ。

だから、現代において「すれ違い」とは、生身の人間どうしの物理的なそれではなく、情報メディア機器やサービスに媒介された「意識」や「気持ち」の「すれ違い」を描かなければならなくなる。

その関係は、ときには恋愛、友人関係、もしくはネット上での知人などと、いつでもどこでも「つながり」を保持しているという形でもって、行為主体たる「わたし」を肯定し、後押ししてくれることもあるだろう(作品2、3)。

しかし、そのような様相はもう一方で、わたしたちがつねに何かによって拘束されつづけているという側面を隠蔽している。それをわたしたちは、薄うすどこかで感じとっている。好意に満ちた「つながり」という表皮の裏側には、それがいつどんな理由によって剥がされ、「拘束」へと反転するかわからないという怯えが張りついている(作品1)。そうした危うさと息苦しさのなかで、身もだえしながら生きざるをえない。そんな世界認識があぶり出されてくる。

それだけではない。

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