勝手にクリスマス・エクスプレス2010(3/3)

疎遠なものを結びつけるのは、儀礼のもつ働きのひとつである。クリスマスもまた儀礼の一種であり、そこからいくつかの変換過程をへて、現代日本では恋愛イベントという認識が通有されている。

クリスマス・エクスプレスもまた、そうした認識を下敷きにしている。だからそこでは、新幹線は、離れていた彼と彼女を結びつけるメディアとして、自己の「魔法つかい」ぶりを発揮してみせる(それがJR東海という企業のイメージアップへとつながるよう設計されている)。新幹線というメディアの助力によって、恋愛状態にある男女が、年に一度、純粋に結びつけられるという「いい話」が描かれるわけだ。

ところが、今日こうした「いい話」パターンをそのまま踏襲するのは、じつはたいへんむずかしい。どこか嘘っぽくなってしまうのだ。だから今回製作した3本のうち、この枠組みをオーソドックスに踏襲しているのは、前述どおり、作品2のみである。もう一度この作品に注目してみよう。

作品2も他の2本と同じく、設定もお話もそれ自体は破綻はない。作者の素直な気持ちも十二分に汲みとることができる。この作品をみたひとは、なるほど「いい話」だとおもうに違いない。しかし同時に、これが、こしらえものとしての「いい話」、という感覚も併せもつのではないだろうか。というのも、この作品が「いい話」として収まるかに見えるのは、あるところでそれ以上語るのを止め、物語を終わったことにして閉じてしまうからである。そのことを、見る者はうすうす察知してしまうに違いない。

「物語を終わったことにして閉じてしまう」とは、その外側にいったい何があるはずなのだろうか。もし実際におきた出来事だとしたらどうだろうと考えてみればいい。彼から届いた東京タワーの写メを見た彼女は、どうするか。「彼氏からこんなメールもらっちゃった」みたいなつぶやきをツイッターに流するかもしれない。写真を流した彼のほうとて、「彼女にこんな写真送ってあげちゃった俺って」というような投稿を、ブログやネットの掲示板に書き込んだりするかもしれない。

つまり、実際の出来事がそれとして完結せず、それにたいして何かコメントを付され、それがネット上で共有されてゆくだろうということだ。それは今日の情報メディア環境のなかでのもっとも典型的な振るまいであり、今日の行動様式に照らしていえば、こういう事態を折り込まないほうが、むしろ不自然であるとさえいえる。現にさまざまなネットサービスはどれもこれも、短いコメントがさらにコメントを呼ぶような連鎖の図式に依拠しているだろう。

コメント、すなわち何かにかんする言説というのは、メタ的である。語られる対象の外側に立ちあがるものであるからだ。したがって、「コメント」にはある種の醒めた視線が内包されることになる。それは、「いい話」をそれだけで完結することを許さず、それを離れたところから眺めて品評するようなメタレベルを、否応なく立ちあげてしまう。

メタ的というと、それをすぐに、全体を見とおし位置づける力──なんなら「批評」といいかえてもよい──と短絡させるような意見がしばしば見られる。たしかに、メタレベルにたつということは、対象から一定の距離をとることでもあるのだから、その可能性を潜在させてはいるだろう。しかし、それはけっして約束されたものなのではない。ベイトソンも述べているように、プラスにもマイナスにも、どちらにも作用しうるものなのである(むしろ破壊的に作用することのほうが多い)。メタレベルの生成と、それが批評として機能するかどうかは、また別の問題なのだ。

メタレベルにたって眺めるときの距離感は、しばしば語り手にたいし安全地帯を確保しているかのように感じさせもする。そうなると、対象は「ネタ」化する。「いい話」は、それがいかにも「いい話」であればあるほど、恰好の「ネタ」として扱われることになってゆくだろう。

すべてが「ネタ」化し、「批評」がハイパーインフレーションをおこしている。そのような21世紀のメディア社会のなかで「批評」はいかに可能なのか。

20年前に放送されたJR東海のクリスマス・エクスプレスは、たとえばこのようにして、今日わたしたちが生きる社会を照らしかえしているだろう。

21世紀に入って10年。今年もまた、クリスマスがやってくる。

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本稿で言及した大学院の授業での製作作品は、いずれ明学・芸術学科のウェブサイトにあげる予定です(ただし音楽は含まれません)。

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