首まわらず

首がまわらなくなった。これで何度目だろうか。

来年度のゼミ選考面接をおこなっていたときのこと。椅子の上で少し背中をそらしたとたん、ピリッときた。左の耳のうしろから左肩先にかけて、猛烈な痛みが走る。首から背骨の左側に沿っての線も痛む。顔は少し右に向いたまま、以後、動かすことができなくなってしまった。

今回は、さいわい同僚の岡本章先生が同席しておられたので、どれどれといって、さっそく診てくださった。演劇家の岡本先生はヨガの専門家でもあり、身体に精通しておられる。触ってみたところ、肩から上がえらく凝り固まっているという。息を吐くきながら、痛くないほうへ首を少しずつ動かしてみるとよいと教えていただいた。

息を吐くことが大切だということは、裏をかえせば、息をとめているのは身体によくないということでもあろう。じつは思いあたる節がある。気がつくと、ぼくは息を止めていることが多いのだ。執筆するときや本を読んでいるとき、映画を観ているとき。しょっちゅうである。息をとめているときは、誰だって身体は固くこわばるものだ。だからぼくの身体が凝り固まっているのは、運動不足というせいだけでなく、無意識のうちに息を止めてしまう癖があるからかもしれない。

むろん集中するときは誰でも息を止めるものだろう。ぼくのばあい、特別に集中しているというのでないときでさえ、どういうわけか、しばしば息を止めてしまう。《あ》はぼくのことを、よくため息をつくひとだというのだが、べつに何かを嘆いているのではない。無意識に息を止めているうちに苦しくなり、大きく息を継がざるをえなくなっているだけなのだ。

さて、そんなことを知ったとしても、そのことはいま現在の症状の恢復とは別問題である。首は動かないけれども、面接は続けなければならない、こうなると難儀である。順番にやってくる学生たちのほうに顔を向けようとするのだが、学生はつねに特定の位置で静止してくれているわけではない。扉をあけて入室し、着席して面接。それが済むと、また扉をあけて退室してゆく。そのたびに、いちいちそちらに顔を向ける必要がある。

ふつうに首がまわれば何の苦労もない所作ですむのだが、いまの状態では容易なことではない。正面以外の方向に顔を向けるためには、腰から上、もしくは椅子の座面をまわして上体ごとぐるりと回転させることになる。ちょうど昔の特撮ものに登場する着ぐるみの怪獣やロボットみたいな感じである。学生が「このひと大丈夫か?」という顔で一瞥をくれる。ま、しかたない。

ともかくその状態のまま面接を終え、帰ってきた。

ところが、夜になってさらなる困難が待っていた。首が固定されているような状態のまま横になるわけだが、そこから身動きできないのである。寝返りも打てない。やたらに窮屈なそんな状態のなかで、身体の向きを少しでも変えようとすると、腫れている筋に力がかかり、激痛が走る。こんなふうに身体に力がかかっているなどとは、元気なときには露ほど思い至らなかったことである。

それだけではない。猫の《てんてん》がぼくの掛け布団の上にどっかりと居座って眠りこけている。毎夜のことではあるのだが、その晩はことさら《てんてん》の体重(3kgくらいあるだろうか)が重くのしかかる。

そんなわけで、朝になって目が覚めたときには、早くもぐったりしていた。

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