ミニマム、シンプル、ファンダメンタル

先日のレクチャーでは、これまで取り組んできたワークショップについて話をした。

やっているワークショップはたくさんある。その中から今回は「デジタル・ストーリーテリング」と「自己紹介ツールを発明する」という二つのワークショップを中心に紹介した。前者は作品のみウェブで公開しているが、後者はほぼ初公開だ。そして、そうした実践的な取り組みから、拙著『アトラクションの日常』へとつながるメディアと身体という問題系をどう見出してきたのか、その道筋を簡単にお話しした。

よく考えてみれば、明学に赴任して以来じぶんがやってきたワークショップの実績をまとまった形で発表したことは、一度もないのだった。かつてのメルプロジェクトの仲間たちであっても、いまのぼくが何をやっているのかは、たぶんよく知らないだろう。

学会のような場所で発表するという手もあるのだが、ぼくの知っている学会は、残念ながらそういうものを受け入れるような空気があるとはいいにくい。もちろんそれでも発表しないよりはしたほうがいいという考え方もあるだろう。だが個人的にあんまり気がすすまないのだから仕方ない。それよりも、目の前の現実にきちんと向きあうことのほうが大切だった。ただ、まとめるなら本にしたいという思いは強くあったし、いまもある。エッセイや論文のなかでとりあげたりはしてきたが、いずれも断片的であった。

だから、ぼくがどんなことをしていて、どんな蓄積があって、そこから何を考えてきたのかということを、まがりなりにも少しはまとまった形で提示できたのは、今回が初めてだった。ぼく自身そんな話をしてみたいという気持ちになることができたのは、それを受け入れてくださるような場を与えてもらったからだった。それが可能だったのは、分野は異なるといえども関心の核心みたいなものが共有されていたからだろう。僥倖であった。感謝します。

参加者の方との討論も活発で刺戟的だった。

「デジタル」というから、よほどテクノロジー中心的な話なのかとおもったら、逆にものすごく生々しく、作り手の学生たちの生の姿が鮮明に浮かびあがっていたのが印象的だったというご意見をいただいた。デジタルであろうがなんであろうが、それこそが「作品」を成り立たせる最初にして最終的な軸である。必死で課題に取り組んだ学生たちが聞いたなら、きっとよろこんだにちがいない。

なぜ「じぶん自身」がテーマなのかという質問もいただいた。たぶん理由は二つある。ひとつは、「自己」なるものをどう捉えどう考えるかは、すべての基礎にあるからである。もうひとつは、ぼくの発想の基礎にあるのが(「放送」ではなく)「映画(ただし物語映画の水準ではない)」だからであろう。

いまぼくが取り組んでいるワークショップはいずれも、ミニマムでシンプル、かつファンダメンタルなものだとおもっている(格好つけていわせてもらえば)。ぼく自身がハンドリングできる範囲を越えないようにしているので、キャッチーなことはできないし、しない。その代わり、その範疇においてはとことん自由で、思いきり創意をこらす。

あくまで大学の授業という枠組みのなかにおいて、目の前にいる学生たちを相手に、お金をかけず(そもそも予算がないのだが)、流行の事象も追わず(そもそもそんな余裕がないのだが)、身のまわりにある最小限の素材と機材でまかないながら(そもそも高価な機材を扱えるような環境にない)、「自己」なるものの声を聴き、そこに向きあい、問いなおす。

主眼は、メディアを使う方や技法の習得、既存のメディア産業の真似事をすることではない(それを否定しているわけではない)。ワークショップの過程をとおして、メディアを考えたり、メディアから、文化や社会について考えたりするような視座を養っていくことだ。そして実際、そんなふうにして、学生たちは成長していってくれている。

同じことは、ぼく自身にとっても当てはまる、何かを教えたり広めたりというよりも、ワークショップの経験で得た疑問や気づきをもう一度メディアの思想的な枠組みにフィードバックさせてみる、というようなスタンスで取り組んでいる。

今回話をしてみて、おもったこと。機会があったら別のワークショップについても話をしたい。そして、より包括的な形できちんとまとめてみたい。

──と書いたところで、そろそろデジタル・ストーリーテリングの授業に出かけなければならない時間になった。