映画『風立ちぬ』

いい作品だった。二度観にいってしまった。

宮崎駿の監督作品のなかでは『天空の城ラピュタ』についで好きかもしれない。ぼく自身は、『風立ちぬ』と聞くと、堀辰雄よりも先に松田聖子の(というか大瀧さんの)曲が自動的に脳内に再生されてしまうようなタイプの「教養」の持主でしかないのだが(なおこの曲が堀辰雄的世界と関係するのはタイトルだけである)。

近年の『崖の上のポニョ』や『ハウルの動く城』では、洗練されてはいるものの、自己の再生産という印象が拭えず、行き詰まっている感がありありと感じられ、観ていてつらいものがあった。本作品は、魔法や活劇といったこれまでの宮崎作品の重要な柱(であり同時に手練れ)を封印することによって、かえって過去の自己の殻を突きやぶることに成功し、一段深いところに到達してしまったような清々しい印象をもたらす。

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基本的には、暗い時代を背景に、みずからの志に殉じようとした結果、ひとつの「夢」を手に入れるとともに時代に挫折してゆくという暗い話ではある。ストーリー展開も、いたって淡々としている。

しかし作品の構造は単純ではない。物語上の時間や場所がつぎつぎと変わってゆき、それらが少しずつ相互に折り重なってゆく。並みの監督なら展開を追うのが精一杯で、結果として散漫な作品をつくってしまったであろう。ところが本作品では、それを逆手にとって、ひとりの才能あふれた青年の半生を、これ以上はないというくらい適度なテンポで描いてゆく。その手腕はさすがというほかない。

逆に、従来の宮崎作品のような、濃いキャラクター造型や起伏に富んだストーリーの展開を期待するならば、肩すかしをくらうかもしれない。台詞は全体に最小限に削ぎ落とされており、物語もすべての観客に同じ理解を提供するような「わかりやすさ」はない。映画館でみかけた小学校3年生くらいの男の子は、最後の30分で集中力が途切れていた。

しかしそれはこの作品がつまらないということを意味しているのではない。むしろ「ジブリ」とか「アニメ」とか「キャラ」とか、その手の枠組みをいったん横におき、一本の映画作品として接するのがいちばんふさわしい態度ではないかとおもう。

舞台となっている大正から昭和初期にかけての日常を、そこに種々のテクノロジーが浸透しているさまとして、ていねいに描かれていることにも感心した。それはまず、街並みやひとびとが利用する鉄道(軽便鉄道、蒸機の9600や8600、市電、アプト式機関車、……)、一銭蒸機にボンネットバス、自転車、大八車、電話や電報といったものどもである。それらがたんなる風俗としてではなく、物語にしっかりと絡みながら描かれている点もすばらしい。

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「創造的人生の持ち時間は10年だ」という台詞が印象的である。当然それは宮崎駿自身にもはねかえってきているはずだからだ。かれの監督としてのデビューを仮に初の演出作品『未来少年コナン』から考えるとすれば、すでに「10年」などとっくにすぎてしまっている。キャリアを重ね、内外から評価を得るようになったとしても、じぶんの「創造的人生の持ち時間」がどんな状況にあるかは、当人なら嫌というほどわかっているはずだ。

本作品では、堀越二郎の「10年」が描かれる。その「10年」は、ある程度の才能をもち、努力を惜しまぬひとであれば、比較的多くのひとに与えられる「持ち時間」なのだろう。そして、たいていのばあい、その「10年」で終わる。もしかしたら、実在した堀越二郎もそうであったのかもしれない。

だが例外もある。その「10年」を徹底的にあがきつづけた先に、過去の自己を内から解体し、新しく生まれ変わったようにして、新たな地平を切り拓く契機をつかむというようなことも、あるのかもしれない。その先には、また別の「10年」が見出されるだろう。

もし、そういうことが宮崎駿にもあてはめられるのならば、この作品は、かれの何度目かの「創造的人生の持ち時間」の新たな始まりを示しているのかもしれない。

だから、ぼくの感想としては「いい作品だった」という言葉に尽きる。そうして、しばらく時間をおいてから、また観にいきたい。それが、ぼくのこの作品にたいする「敬意」の払い方である。

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余談をひとつ。

作中、堀越二郎が勤務していたのは現在の三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所の大江工場だとおもう。名古屋にはほかにいくつも三菱重工業の工場があった。ぼくのかよった高校の裏手には、三菱電機名古屋製作所があり(いまもある)、その東隣には三菱重工業名古屋発動機製作所(旧大幸工場)があった。現在ナゴヤドームのあるところから矢田川ぞいに東海病院あたりまでの広大な一帯である。

そこは、戦前戦中にかけ、日本有数の軍需工業地帯であり、最大の航空機のエンジン生産拠点であった。それゆえ戦争末期には烈しい空襲を頻繁にうけ、ほぼ壊滅した。

高校の校舎は、1938年建造の、帝冠様式のテイストが少しばかりまぶされた奇怪な鉄筋コンクリート造で、3階のテラスには当時は高射砲だか機関砲だかが設置されていたらしいのだが、奇跡的に破壊をまぬがれたものだと聞いた。一部に弾痕が残り、被弾した掛け時計などが保存されていた。なおこの校舎は、ぼくたちの卒業したのち建て替えられたため、現存しない。

ちなみに、ぼくが小学生のころまで住んでいた場所も近くだった。そこは陸軍造兵廠千種製造所の跡地であったらしく、ここも徹底的に破壊され、多くの方が亡くなったのだという。子どものころ毎日あそんだ千種公園に追悼の碑がたっていた。たぶんいまもあるはずだ。