これはまた、まことによくできた映画である。観て損はないとおもいます。ぼくが観たのはヒューマントラストシネマ有楽町。ほぼ満席だった。
1950年代の終わり、タイプライターに魅せられた田舎娘が、秘書として働くべく都会へでてくる。そしてタイピング早打ち大会優勝をめざして特訓してゆくうちに洗練されていき、困難を乗り越えて成功をつかむというシンデレラ物語。もちろんロマンスをからませることも忘れていない。
女性の社会進出だとか、ワイルダー作品やドゥミ作品などへの映画史的なオマージュだとか、50年代的な色彩豊かなファッションだとか、いろんな語り口があり、それらも狙いに含まれるのだろう。だが、ぼくにはそれらの諸要素はあまり重要とはおもわれなかった。
ぼくが感心したのは、つぎの2点だ。第一は、娯楽映画としての定型をきっちり踏まえたつくり。そのきっちりさは、並大抵ではない。すなわち第二は、しつこさ、である。
ダメダメな娘がもろもろあって困難を乗り越え成功するというプロット自体は、ごくありふれたものである。娯楽作品の王道のひとつであり、近年の日本映画でもかなり頻繁に踏襲されている。
代表例として『スウィングガールズ』や『ハッピーフライト』などの矢口史靖監督の作品をあげてよいだろう。これらと比較すると、本作品の特徴がよくわかるのではないか。
プロット自体がもたらすおもしろさは、どちらもよく似ている。しかしながら、矢口作品が冷や奴のように淡泊な印象をもたらすのにたいして、本作品のそれはバターとオイルをたっぷりつかったような濃厚なものである。
そのちがいは、定型の踏まえ方のきっちりさ加減、ディテールの押さえ方、そしてそれらを物語に結びあわせる仕方の緊密さに由来しているようにおもわれる。プロット、人物造型、ショット、カメラワーク、編集、そして音楽と、どれもがよく考えられていて、かつ相互にひじょうに密接にからみあい、物語を支えている。
プロットも、定型をひととおり押さえているだけではない。ふつうであれば、ラストの大きな山場に向けて物語を盛りあげてゆくのにたいして、本作品は一山越えたとおもったら、その先に、さらにもうひとつ、より峻険な山場があらわれる。それまでの観客の予想を軽く裏切るような展開をはさみつつ、最後の大山へ突入してゆく。それぞれにいかにも類型的な敵役を配して、最後まで引っぱってゆく。このあたりはもう力技の体力勝負という感じだが、それぞれの山場へ向けてのディテールも、適度な省略を効かせながら、しっかりと押さえているので、けっして大味になってはいない。
ただ、ラブシーンは余計だったようにおもう。なぜか妙に素人ぽいシークエンスであったし。観客サービスのつもりなのだろうけれど、べつに見せられてうれしいような映像ではない。矢口監督が賢明なのは、この手のしょもない「サービス」に手をださないことである。
とはいえ、これが初監督作品だというレジス・ロワンサルの仕事ぶりは立派なものである。プロデューサーや撮影監督など主要スタッフの一部は『アーティスト』と重なっており、その支えも強力に機能したのだろう。
それにしても、タイプライターを打つ音がラテンのリズムに重なるのを聴くと、トニー谷の『ちゃんばらマンボ』や『さいざんすマンボ』が思い出されてならず、日本で撮るならやっぱりソロバンだろう、などとおもうのであった。コンクールもあることだし。
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個人的に興味深かった点を2つ。
その1は、タイピング早打ちをきわめるために、ルイがローズにピアノを習得させるというくだり。もちろん両者に直接の関連はないはずなのだが、じつは1980年代の日本語ワープロの普及期にも、同じような連想にもとづく言説があった。
このことは以前にある論文を書いたさいの調査でわかったことだ。つまり、キーボードをブラインドで速く打つのは容易ではない、それはそもそもピアノが弾けないからだ、みたいな言説が実際に存在したのである。本作品でなされるようなタイプ早打ち=ピアノ習得という図式が1950年代フランスにもこの種の観念や言説が存在したのか、それとも創作なのかはわからないが、興味深かった。
その2は、作中でルイとローズが乗る自動車である。ナマズのような顔をした、フランス車らしい流麗なフォルムをしている。ぼくの知らない車種だった。写真をパンフレットから引用させていただきます。
調べてみると、パナールのディナZ (Panhard DynaZ) というクルマだとわかった。パナールは世界最古の自動車メーカーのひとつ。1965年にシトロエンに吸収されて消滅してしまうのだが、理想主義と合理主義とが独特の結合をみせたクルマを生みだしたメーカーだったという。
ディナZは、最小のエンジンで最大の居住性を確保するという思想でつくられた小型大衆車で、1950年代の名車のひとつらしい。中型車クラスのボディでありながら、エンジンは空冷851cc41馬力、車体のフォルムは空力を徹底的に追究させ、1954年のデビュー時はアルミの車体で軽量化していたが、57年にスチールに置き換わった。それでも車両重量は875kgしかなかったという。作中は1959年という設定だから、登場しているのはこのスチール製車体のディナZかもしれない。
パナールはディナZは日本にも少数輸入されたそうだ。現在この車をレストアされているという方のこちらのブログに詳しい。