前回サンクスギビングの七面鳥とディナーの話を書いた。今回はその背景の話。
サンクスギビングの神話
サンクスギビングのことを日本語で「感謝祭」と訳す。それはそれでいいのだろうけれど、ぼくの感覚だと少しさっぱりしすぎるような気もする。もう少しニュアンスがあるのではないか。
サンクスギビングは、アメリカの起源の神話と関係した祝日である。
もともとは秋の収穫を祝うお祭りが下地にあるのだろうとおもわれる(クリスマスの下地が冬至のお祭りであるように)。いまのニューイングランドのプリマスに入植した最初の入植者たち(ピルグリム・ファーザーズ)たちが、冬を迎えて飢えかかっているところへ、ネイティブアメリカンたちが食べものを提供してくれたため、生き延びることができた、という神話的なエピソードが起源だという。11月に入ると、ぼくたちのような異邦人は、そのような説明を何度も聞かされることになる。
サンクスギビングの起源の神話は、日本でいうと「笠地蔵」のお話に似ていなくもない。だが、よく考えてみるとじつはまったく違う。
笠地蔵では、おじいさんとおばあさんは、売れなかった笠を雪のなかに寒そうにたつお地蔵さんにかぶせてあげる。おじいさんとおばあさんにとっては何の現世的利益がないにもかかわらず。だから、その意図せざる恩返しとして、お地蔵さんたちが正月を迎えるための食べものを運んできてくれるという話が成り立つ。これにたいして、サンクスギビングの神話では、入植者たちはネイティブアメリカンのために何かをしたわけではないようだ。だから、かれらはただ、ネイティブアメリカンが勝手にいだいた好意を一方的に受けとっただけ、のように聞こえる。白人にとって、まあ都合のいい話である。
じっさい、サンクスギビングの起源の話を教えてくれたアメリカ人のなかのひとりは、「でもまあ、ほとんど〈創作〉だろうね」と言う。英国国教会から迫害され、それから逃れるために北米へやってきた白人たちは、みずからの宗教的自由の実現という「正義」のために、英国で受けた迫害と同じこと(あるいはそれ以上のこと)を、こんどはじぶんたちがネイティブアメリカンにたいしておこなうわけだから、とかれは付け加えた。サンクスギビングの神話の背後には、そうしたアメリカ史の悲劇を中和しようとするような力学がはたらいているようである。
祝日としてのサンクスギビング
幾人かのアメリカの友人たちは異口同音に、サンクスギビングがいちばん好きな祝日だという。たとえばクリスマスなら、プレゼントを用意しなければならないし、カードを書かねばならない、飾り付けもしなければならないといった具合に、「しなければらないこと」がけっこうたくさんある。宗教的な背景もある。でもサンクスギビングにはとくにそうしたプレッシャーはない。ただ、ディナーをたべて、買い物にいき、ごろごろしていればいい。だから好きなのだ、という。
ディナーのことは前回述べた。サンクスギビング当日のアナーバー市内は、これも前回の冒頭にも書いたとおり、がらんとして静かだった。交通量は極端に少なく、沿道のお店も大半は、営業時間を短縮しているか、閉まっている。スーパーについても、Trader Joe’sはお休み、Whole Foodsは1500で閉店、Krogerでさえ1700閉店という。閉店30分前にKrogerにいってみたら、二つある入口の片方が閉鎖されて、なかもがらんとしていた。
Krogerの入っているモールのだだ広い駐車場はがらがら。モールにならんだほかのお店もほぼ閉まっていた。
なお、24時間営業の大規模店Meijerはサンクスギビングでもふつうに開いていた。近隣のひともそれを知っているのか、意外に買い物客が多くいた。
ブラックフライデー
サンクスギビングの日に大半のお店は閉まっていたのは、翌日のブラックフライデーにそなえるためだったのかもしれない。
ブラックフライデーという言葉の響きは、ぼくのような異邦人には株価大暴落みたいな現象を思い起こさせるのだが、そうではない。サンクスギビングの翌日の金曜日は、全米の小売店という小売店が一大安売りセールをおこなう日であり、それをブラックフライデーとよぶ。この日は全米の小売店の売り上げが黒字になるから、という理由によるのだそうだ。
開店前から行列ができ、店がひらくと「動物の群れのように」客が棚に押し寄せる、という話を聞いた。開店時間は年々早まり、金曜未明から、いまでは木曜(つまりサンクスギビング当日)の夜、というところもあるのだとか。
また週明けの月曜日はオンラインストアの大売り出しで、こちらは「サイバーマンデー」という。
最近は日本でもブラックフライデーの旗を振ろうという流れもあるようだ。まあなんにしても、買え、買え、買え、の嵐である。