自粛生活の読書——内田百閒『東京焼盡』

自粛生活の読書にふさわしい本のひとつといえば、内田百閒『東京焼盡』である。書棚から中公文庫版をひっぱり出してきて、ぽつぽつ拾い読みしている。

昭和19年11月1日から昭和20年8月21日までの日記。米軍による空襲が日増しに烈しくなり、街が丸焼けになってゆく戦争末期の日々のようすが書きとめられている。

内田百閒の筆になるせいか、悲壮感はあまりない。登場するひとびとは、みなわりあい平静で、事態を受け入れて淡々と生きているような印象を受ける。

昭和20年3月9日から10日にかけての、いわゆる東京大空襲の日の記述。

表を焼け出された人人が列になつて通つた。火の手で空が明かるいから、顔まではつきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行つた。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ツ子と云ふわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。二時三十五分漸く空襲警報解除となり、三時二十分警戒警報も解除になつた。火の手もこの辺までは来ずに済んだ。ほつとして中に這入ると電気が消えてしまつた。蠟燭の灯にて夜食をし、一寸居睡りをして、更めて寝床に寝たのは朝の六時であつた。

このとき内田百閒の住む市ヶ谷・九段あたりは下町ほどの被害は受けずにすんだ。しかしその後、5月24日から25日にかけての空襲で、ついに焼け出されてしまう。

B29の大きな姿が土手の向う、四谷牛込の方からこちらへ今迄嘗つて見た事もない低空で飛んで来る。機体や翼の裏側が下で燃えてゐる町の燄の色をうつし赤く染まつて、ゐもりの腹の様である。もういけないと思ひながら見守つてゐるこちらの真上にかぶさつて来て頭の上を飛び過ぎる。どかんどかんと云ふ投弾の響が続け様に聞こえる。
(略)
もう逃げなければいけないと考えへた。ひどい風で起つてゐられない位である。土手の方へ行かうと思つたが家内が水島の裏へ抜けた方がよくはないかと云ふのでそれもさうだと思ひ、裏の土手の道へ出た。二人共背中と両手に荷物が一ぱいなので、ただでさへ歩くのに困難である。その上風がひどく埃と灰と火の粉で思ふ様に歩けない。裏の土手に沿つて二足三足市ケ谷のほうへ行きかけたが、盛んな火の手が有つてあぶなさうだから思ひ止まつた。山口の軍需大臣官邸裏の屏の陰に荷物を下ろして一休みした。自分も苦しいが平生滅多にそんな事は云はない家内が苦しいから休みたいと云つた。
(略)
午前一時空襲警報解除のサイレンを土手の腹で聞いて、先づ先づ無事で過ごし得たのを家内と共に喜んだ。家の前には未だ行つて見ないけれど、勿論焼けたのである。未練もあり心残りも有るけれど仕方がない。

焼け出されたあと、掘っ立て小屋をたてて暮らす。そこに弟子たちが、わずかばかりの食べものや、苦労して手に入れたお酒を届けにやってくる。そのお酒を、内田百閒は、届けてくれた弟子と一緒に呑んでしまったりするのだった。