北海道の寿都町が高レベル放射性廃棄物——いわゆる「核のゴミ」——の最終処分場の調査に応募することを検討している、というニュースをネットで初めて目にしたのは8月13日夜だった。
翌14日の朝刊には各紙とも記事を載せた。北海道内ではその後もいろいろと動きがあり、報道もなされているようだが、管見のかぎり東京での関心はいまひとつであるように感じられる。「寿都」の読み方からしてわからないひとも少なくないだろう(「すっつ」)。
道がこの種の施設の受け入れ拒否を条例化していることもあり、道をはじめ近隣自治体などからもおどろきと反発をもって受けとめられているという。
個人的にもおどろいた。寿都町のことはよく知っている。隣にある島牧村にもう35年もかよっているからだ。寿都では何度となく買い物をし、ニセコバスを乗り継ぎ、ゆべつのゆ(日帰り温泉)に入った。若くてバカ者だったころ、バイクでこけて救急車で運ばれたのも寿都の病院だった。
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いくつかの記事を読んだ。そのかぎりでいえば、寿都町町長の主張はたいへん率直である。ようするに目的はカネ、ということなのだから。たとえば、以下のインタビュー(有料記事)。
さて、事業主体であるNUMO (原子力発電環境整備機構)によれば、最終処分地の選定は、次の4段階を経てなされる。すなわち、文献調査→概要調査→精密調査→施設建設である。そして、各段階ごとに「都道府県知事、市町村長の意見を聴き、反対の場合は次の段階には進まない」としている。
第一段階である文献調査に応募すれば、それだけで20億円が当該自治体に支払われるのだという。文献調査では実地調査はおこなわれない。実質的には、ただ手をあげただけでカネが入ってくる。さらに第二段階である概要調査まですすめば、総額で最大90億円が支払われるそうだ。概要調査ではボーリング調査などがおこなわれるので、それに関連しても町におカネが落ちるだろう。
町長は、ほかにも手をあげる自治体があるだろうからそこと比較してもらえばいいとか、国は3回中止のチャンスを与えてくれている、第二段階までは近隣自治体や道の意見は聞かない、などと述べているという。こうした発言から推察するに、現時点での町長の目的は、その90億円+αを得ることにあるのだと考えられる。もらうものだけもらってしまえばこっちのもの、あとは嫌ならいつでも撤退すればいい、という目論みだ。そうだとすれば、まさに濡れ手に粟の「フリーランチ」、あまり上等とはいえない表現をすれば「タダめし」ないし「食い逃げ」狙い、というわけだ。
町長としては「うまく立ちまわることができる」と踏んでいるのだろう。しかしながら、町長のこの考えは、率直であると同時に、ナイーヴすぎる。こういう問題にかんしては、国は一枚二枚どころか、何百枚も上手である。餌に釣られて向こうから近寄ってきたカモをおめおめ取り逃がすようでは、猟師失格だろう。
世の中には、あいにく「フリーランチ」など存在しない。一見うまい儲け話には必ず裏がある。このばあいなら、カネを返せとは言われまい。ただし、いったん応募したら最後、けっして途中で抜けることはできない。形のうえでは「いつでも中止できます」ということになっているかもしれない。だが、あくまで形のうえだけだ。実際には、できない。そういう地獄仕様なのだ。
なぜか。それはこれまで国が推し進めてきた原発政策の歴史を見れば一目瞭然だ。原発政策とは、つねに「結論ありき」。途中の調査や検討や住民との「対話」も、みなその前提である。シンポジウムやら対話集会やらという名目でどれだけ会合を重ねても、それは参加者(自治体や住民)を「説得」しようとするものでしかない。国やNUMOといった推進者側には、じぶんの考えややり方を変更する用意などまったくないのだから。
だから、調査といっても、その結果「ここは適地ではないので建設しない」という判断がくだされる可能性はほぼ皆無である。そもそもこの応募の前提になっているNUMOが発表した「科学的特性マップ」なるもの自体が、「結論ありき」の典型例だ。国やNUMOの立場に与しているはずの産経新聞でさえ苦言を呈したほどである。
原発政策の歴史が一目瞭然に示すことは、もうひとつある。この手の原発関連施設の誘致にひとたび手をあげたなら、たちまち地域のコミュニティが分断されてしまうということだ。なぜなら、そのように推進者側が動くからである。
たとえ最終的に施設の受入が拒否されたのだとしても、ひとたび生じてしまったその分断は、どれだけ時間がたっても癒やされることはない。その責任は、国も自治体もNUMOのような機関も、誰もとらない。それでもそこに住む者たちは、今後何世代にもわたって、そのような分断されたコミュニティのなかで生きてゆかなければならない。その意味でも、ひとたび手をあげたら最後、途中で抜けることができない地獄仕様なのだ。
国など原発推進をはかる者たちは、もうたいがい気づいたほうがよい。「フリーランチ」を撒き餌にして財政の苦しい自治体の「頬を札束ではたくやり方」(鈴木直道北海道知事の発言)自体が、もうすっかり時代遅れになったという現実を。
さらにいえば、原子力発電という発電方式自体が、もう時代遅れになりつつあるという現実も、そろそろ直視したほうがよい。これは、ぼくが日本国内だけでなく世界の原発PR施設を見てきて強く感じることである。
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ところで、寿都町は近年ふるさと納税で大きな成功を収めてきた。平成30年度(2019年度)には11億円以上のふるさと納税を集めている。これは道内8位、全国でも77位の数字だという。
この事実は、寿都町が、その自然とその恵み、歴史、文化のもたらす大きな魅力を潜在していることを示唆している。そしてその潜在的な魅力は、やりようによってはますますその価値を高めることができるし、半永久的に活用してゆくこともできるはずである。
おもうに、寿都町は、財政の苦しさを乗り越えるためのリソースの発見もそれを活かす方法論も、すでに半ば掌中に収めているのではなかろうか。メーテルリンクの童話「青い鳥」と同じだ。そのことをもっと自覚してよいのではないだろうか。そして、それが「核のゴミ」処分場の受け入れとは両立できないということも。
世に「フリーランチ」など存在しない。目先の小金に目がくらんで手をだすことは、じぶん自身の手のなかにすでにある「青い鳥」、すなわち自然・文化・歴史のリソースがもたらす無限の可能性をドブに捨ててしまうことを意味している。
寿都町が、賢明にも、みずからのもつかけがえのない魅力をいつまでも大切にされんことを。