あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
元日はいつものように近所の天満宮に初詣へゆき、その足でぐるりと散歩してきただけ。北風がことのほか冷たく、幾度か小雪が舞った。
昨年はおかげさまで単著や共著などいくつかの出版が実現できた。多くの方々の支援の賜物であり、そしてぼくの書いたものを読んでくださる(少数の奇特ながら熱心な)読者のおかげである。あらためて感謝する。
今年もまたできるだけ原稿を書きたい。
村田麻里子(関大)と共同で編纂するメディアリテラシーの教科書を準備している。メディアリテラシーの教科書でありながら、メディアリテラシーを内から解体してしまいかねないようなものにしてみたいと個人的には目論んでいる。──などというと、村田さんには烈火のごとく叱られそうなのだが。
単著はいくつか予定がある。とりわけ優先したいのは、昨年からの積み残しになっている、原発PR施設にかんする本だ。いまひとつ見通しが摑めないために書きあぐねていたのだが、ここへ来て、かすかに手がかりを得たような気がしはじめている。なんとか書きあげたい。
昨年はけっきょく原発の再稼動がないまますぎた。今年はいよいよ再稼働へと政府や経団連や電力事業者たちは加速しつつあるようだ。3.11からまもなく丸4年。あの直後に大学に入学した学生たちが、この春には卒業してゆく。
原発PR施設とは、地元住民をはじめとする一般の「素人」のための施設である。いうまでもなく、事業者サイドが「素人」を「教化啓蒙」することを目的としたプロパガンダ施設、という意味において。そしてそれゆえであろう、多くの論者たちは原発そのものの是非については熱心に論じてきたが、原発PR施設については著しく軽視し、ほぼ完全に無視しているように見うけられる。
とはいえ、原発PR施設の政治性をことさら糾弾したり、施設の維持費用が電気料金に上乗せされていることの是非を問うようなジャーナリズム的な言明をするようなつもりは、ぼくにはない。そんなことは、薄々であれ、すでに多くのひとが知っていることだろうし。スイシン/ハンタイのどちらか一方の立場だけを擁護するつもりもない。
ぼくが出発点にしたいのは、良し悪しはともかく、げんに世の中に原発PR施設が多数存在している、という事実である。そして、日本にある原発PR施設をひとつひとつ実見してゆく(すべて実見済み)。具体的にどのような場所にあり、どんな建物で、どのような内容をどんなふうにして展示しているか(場違いなまでにアトラクション満載なのだ、これが)。何がどのように語られ、そして何がどのように語られていないのか。そういうことをまず土台として把持したい。
そのうえで、事業者側があらかじめ用意した枠組みではなく、それを反転もしくはメタレベルから「解体」する方途をさぐってゆく。いいかえるならば、プロパガンダ施設としての原発PR施設を「解体的に」読み解く、その仕方を検討してみたい。
そのような作業は第一に、事業者サイド(いわゆる原子力ムラ)が、ぼくのような「素人」をどんな程度のものと想定しているかを浮かびあがらせるになるだろう。第二に、事業者サイドの目論見を、無邪気に真に受けるのでも真正面から対抗するのでもなく、換骨奪胎する道を探索することになるだろう。そうすることによって、原発PR施設を、事業者サイドが立脚する「思想」の注入装置としてではなく、ぼくたち「素人」が「素人」として原発について考えるための手立てとして仕立てなおすことへとつながりうるだろう。
原発について基礎的な知識も何ももたない素人は、素人ゆえに沈黙すべきであるという考え方が、スイシン側にもハンタイ側にも根強くあるように見うけられる。科学技術社会論においてさえも、基本的には「素人」も知識をもつべきという考え方が前提にあるようにおもわれる。そのこと自体に異論はない。たしかに、知らないよりは知っていたほうがいい。
しかし、こと原発にかんしては、「素人」が素人の資格において発言していいはずであり、それは十分に尊重されるべきではないか、というのがぼくの考えの基本にある。ただし「素手」ではできない。「道具」が必要だ。原発PR施設は、「素人」のための「道具」になりうる可能性を──設置運営者の目論見とはおそらく裏腹に──含んでいる。それを発現させるための道筋を示してみたいというのが、現時点でのぼくの企図である。
書きあがってみないことには本人にもなんともわからないが、ご興味をおもちの編集者の方はいらっしゃいませんか?