COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染拡大がつづいている。医療崩壊を懸念する日本医師会はじめあちこちから緊急事態宣言の発出を促す声があがっている。ところが政府はいつまでたっても「ぎりぎり持ちこたえている」「まだその状況にない」をくりかえすだけ。ネットを見ると、こうした政府の態度にたいし、煮え切らず先送りとして苦々しくおもう苛立ちの声で溢れている。
ひとびとの苛立ちは、感染拡大が加速する状況のなか、志村けんが亡くなり、脚本家の宮藤官九郎やJリーグの酒井高徳選手といった著名人までもがつぎつぎ罹患してゆくことが象徴的に作用し、不安が極限まで増大していることに起因しているだろう。それゆえ、ネットでは「4月×日緊急事態宣言発令」「首都封鎖」といった過激な言葉が飛び交う。首相は昨日これを「フェイク」と断じ、「気をつけなければ」と述べたという。
たしかにそれらは流言蜚語の類いだろう。しかしながら、政府はもっとみずからの行状を考えたほうがよいとおもう。というのは、そうした流言蜚語の繁茂を促進している一因は、政府自身の情報提供の仕方がマズイことにあるからだ。
情報量が少なく、提供される頻度も疎ら。定例会見でも、データや具体的な方策はあまり示されず、「ぎりぎり持ちこたえている」「宣言を発出する状況にない」という答弁が目立つ。だが、そうした言は判断であって事実ではない。判断は、事実を示すデータの上に成り立つものだが、根拠のはっきり示されないまま判断ばかりが先行しがちだ。その一方で、一度くだした政府の判断については、誤りを認めようとはしない。たとえば、一度は4月とした全国の小中学校の開始時期について、文科相は昨日、新学期以降の休校の「要請を示唆」したという。二重の及び腰である。誰も責任をとろうとしない。
情報が疎らで量的にも乏しいところへもって、ひとびとの不安が刻々増大してゆけば、情報空間に大小無数の穴ぼこができる。その無数の穴ぼこを埋めあわせるべく、恐怖や不安に根ざした想像力がうごめき、さまざまな流言蜚語が沸き上がる。
だから情報は、迅速かつ頻繁に、少しでも多く提供されることが望ましい。たとえ悲観的なデータであったとしても、隠蔽してはいけない。きちんと表に出すべきだ。必要にして十分な情報が適切に提供されるのであれば、ひとびとの不安の穴ぼこは、完全にとまではいかなくとも、多少は緩和されよう。
そのうえで、特措法にもとづく緊急事態宣言を発すよりも前に、通常の法的枠組みのなかでも、もう少しできることがあるのではないだろうか。ちょうどひと月前に北海道がそうしたように。
個人的には、特措法にもとづく緊急事態宣言の発令をせずに済めばそれにこしたことはないとおもう。多くのひとが緊急事態宣言に期待する気持ちはまったくもってよくわかるが、法令を読むかぎり、その期待に宣言が応えることのできる可能性は必ずしも高くなさそうだからだ。政府や自治体が個人にたいしてできることが、現状からそう大きく変わるわけではない。宣言したからといって、それが事態をどこまで改善するかは不透明ということだ。
その一方、問題点はほぼ確実に具現化する。たとえば、緊急事態宣言の下では、政府による事実上の情報統制が(少なくとも一定程度は)可能になる。そうなれば、どうなるか。現状でさえ満足な情報提供がなされていない状態なのに、必要十分にして質の高い情報は現状以上に行き渡りにくくなることが強く懸念される。さすれば流言蜚語がますます繁茂することになるだろう。
首相は現在、不安に駆られて沸騰した世論から烈しい突き上げをくらいながらも、緊急事態宣言に慎重な姿勢を崩せずにいる。なによりも経済への影響が甚大であることが明白であるためだろう。とはいえ人物としては、かれは緊急事態宣言など勇んで発令してみたいタイプに見える。
なお、特措法にもとづく緊急事態宣言については、法令を一読しておかれることをお勧めします。