日本マス・コミュニケーション学会の学術雑誌『マス・コミュニケーション研究』第78号が刊行されました。「メディア文化研究の課題と展望」という特集が組まれており、ぼくも論文を寄稿させていただきました。
題名は「メディアとしての……──暗黙知、枠組み、コンテクスト・マーカー」。「メディア」という概念を、ベイトソンの学習理論を経由して拡張しようという論考です。ここでは、メディアは「ものごとを理解したり遂行したりするときの「枠組み」を支えるもの」と位置づけられることになります。
メディアといえばテレビやケータイやネットのことだとばかり信じているひとには、奇妙に感じられる発想かもしれません。けれども、もともとマクルーハンの「メディア」は、あらゆるものに適用可能な汎用性のある概念として提案されたものです。
90年代まではまだこういうニュアンスは一定程度共有されていたようにおもうのですが、なぜか21世紀に入ってデジタルメディアの日常への浸透が著しくなっていくのと裏腹に、こうした包括的で根源的な視点は失われる一方でした。「情報伝達のためのテクノロジーや機械的手段」というような側面ばかりが過度に強調されるようになりました。結果として「メディア論」という知の平板化や貧困を招いているといわざるをえないような状況にあると感じています。
しかしぼくは、「メディア」とはもっとずっと幅広く、豊かで、厚みがあって、さまざまな可能性を潜在させている言葉だと信じています。その可能性を引きだしたいと、この10年、あれこれと考えてきました。たぶん、何をしているときでも、始終このことを考え続けていたのだとおもいます。いまこの瞬間も、やはり同じでしょう。
けれども、迷い苦しみ、考えはするものの、ぼく自身の力不足もあって、なかなかうまく言葉にすることができずにいました。そこに学会誌より機会を与えていただき、とうとう覚悟を決めて、執筆することにしたのです。昨年の夏から秋にかけてのことです。
毎度のことながら話のスケールの尺があわず、草稿で100枚くらいになったのを、ずいぶん削って、できあがりました。今回の論文でようやく、「メディア」の可能性にたいして、まがりなりにも、ぼくなりの形を与えることができたといえましょう。関係各位には、あらためて御礼申しあげたいとおもいます。
もちろん、まだようやく端緒をつかんだにすぎず、理論的にも応用面でも展開させていかなければなりません。道筋はいくつか用意していますが、今後の課題です。
学会誌という特殊な媒体なので、一般の方にはなかなかお勧めしにくいのですが、大学図書館などには収められているとおもいますので、機会あれば、ごらんいただければさいわいです。いずれになんらかの形で出版したいとおもっています。