前回、特措法にもとづく緊急事態宣言を出そうとおもえばできそうな状況にありそうなものだが、なぜ首相は躊躇しつづけているのか、その理由を妄想した話を書いた(なにしろ当人たちが理由や根拠を語りたがらないので)。
今回はそのつづき。
前回書いた内容とは、経済への影響への忖度、首相自身が閣内や官僚への政治力を喪失しているなど、いくつか考えられるものの、けっきょく、みずからの責任の重さの前にびびって放心しているのではないか、ということだった。あるいはさらに、ここで緊急事態宣言をだしてしまうと延期の決まった東京オリンピックの来年の開催に悪い印象を与えるのではないかと危惧していることも加えてよいかもしれない。
だが、こうした見方はいずれも、首相やその取り巻きたちのことを、なんの深謀遠慮もない無能だといっているのに近い。それでは失礼かもしれないので、逆のパターン、すなわち、ぼくたちが及びもつかないほどの深謀遠慮ゆえに、緊急事態宣言の発出を先延ばししつづけている可能性を妄想してみたい。
感染者数の激増がつづき、医学の現場からは医療崩壊の危機的状況にあるとの警告がたびたびなされ、疫学の専門家からは、現状を外挿すれば欧米に近い状況に陥る可能性が高いため、ただちに外出自粛のより強い措置をとる必要があることが示唆されている。にもかかわらず、首相や政府は「ギリギリの状況にある」という認識をくりえかすだけ。それが無能ゆえでなく、深謀遠慮ゆえであるとしたら、どんな可能性がありうるか。
端的に、世論の誘導のため、と考えるのが、もっとも合理性が高いようにおもわれる。
もともと特措法の改正についてはさまざまな議論があった。もっとも多かったのは、緊急事態宣言の発出要件が曖昧であり、手続きが緩く、そのうえ、ひとたび発出されれば内閣が独断でかなりの事項を決定でき、これに一定の制限をかける条件がきわめて緩いということにあった。そのため、これまで世論の緊急事態宣言にたいする認識は必ずしも好意的なものばかりとはいえず、警戒する向きも少なからずあった。
しかしながら、今回は、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染拡大がつづき、にもかかわらず、政府が有効な手立てを迅速にくりだすことなく、様子見を決め込んでいる。緊急事態宣言を出す条件だけはさっさと整えたものの、そのあとはそれをなかなか行使しようとしない。政府が傍観している間に、多くのひとびとの不安感は極大化した。そして、その不安と恐怖のあまりに、いまや一刻も早く緊急事態宣言を出してほしいと、逆に世論の側が緊急事態宣言の発出を渇望するまでになった。すなわち、集団的な熱狂状態にある。
社会のこのような状態でもっとも得をするのは誰か。権力者である。
もし初期の段階で、政府が迅速に緊急事態宣言を出していたら、一定の警戒感をもって受けとめられただろう。そのばあい、政府はじぶんの思うようにはやりにくかったにちがいない。
しかし、いまは違う。ウイルスだけでなく、感染にたいする恐怖と不安までもが蔓延し、それゆえにこの事態を一変させることを期待するべく、社会の空気は緊急事態宣言への渇望一色に染めあげられている。この段階で、緊急事態宣言が発せられたとして、誰が異議を唱えるだろうか。げんに国会のようすを眺めるかぎり、いまの野党にはその用意はまったくなさそうである。
それは、いわば引きつけに引きつけておいたうえで引き金を引くようなものである。あとは百発百中だ。緊急事態宣言を出してしまえば、あとは首相がほぼ好きなようにできる。
そういうことは非現実的で、内閣はそれどころではないという見方もあるかもしれない。そうかもしれない。しかしながら、世界を見わたすと、感染拡大を抑え込むという名目のもとに、危機に乗じて上に述べたような懸念が現実のものになりつつある国も存在するようだ。先日の日経は、ハンガリーで首相権限が無制限に拡大されたことを伝えていた。
さらに、これとは別の報道によれば、その後同国は非常事態宣言の無期限延長を可能にしたという。
英語の記事ならもっと詳しいことがわかる。
ハンガリーは民主主義の基盤が脆弱だから(=日本は大丈夫)、という意見もあるかもしれない。だが残念なことに日本の民主主義は、外から見たとき、必ずしも堅固なものとは映らないようだ。たとえば「世界報道の自由ランキング2019」では67位(ちなみにハンガリーは87位)。「エコノミスト」誌による「世界民主主義ランキング2019」によれば24位で「欠陥のある民主主義」にあたるとされている(ちなみに韓国22位、米国25位)。
冷静に見れば、日本の状況は、ハンガリーで起きていることを対岸の火事で片づけられるほどはよろしくないと考えたほうがよさそうだ。
さて、日本でも遠からず(早ければ明日6日にも)、首相が緊急事態宣言を発出する時が来るだろう。特措法にもとづく緊急事態宣言にはたしかに外出自粛にたいする強制力はないが、ある種の象徴的機能を発揮する余地はあるかもしれない。ただ「お願いします」というよりは、「緊急事態宣言が出たのだから」というお墨付きがあったほうが少しは効き目がある、というように。また、平時の発想からいまだに抜け出ることができないまま、他に代替手段がないわけでもないのに無益な会議を開いてみたり、いまだに惰性的に社員を満員電車での出社を強いていたり、といった古い日本株式会社的な滅私奉公システムにたいしても、多少は揺さぶりの効果があるかもしれない。なにより、医療現場の危機的な状況をいくらかでも緩和する効果が期待できるかもしれない。
しかしながら、特措法にもとづく緊急事態宣言には、それ以外の面も含まれる。たとえば、これまで首相はくりかえし、緊急事態宣言には欧米のような強制力がないことを強調してきた。ふつうに考えれば、それは緊急事態宣言の発出を先延ばしにする口実である。そしておそらくそれが実状だろう。しかし角度を変えて、より穿った見方をすれば、今回は非常事態なのだからより強制力をもたせるようにしてもいいだろうという方向へ世論をもってゆくための布石とも受け取れなくもない。世論の後押しを受けたという形をとって発出された緊急事態宣言であれば、異論は出にくい。また昨今のネット社会の様相を見るに、異論を唱えるものは袋だたきに遭いやすい。その状況は同時に、COVID-19への対処を大義名分とするならば、内閣が独断的にかなりいろいろなことを、やろうとおもえばできる状況であることをも意味している。
もちろん、以上は可能性としての話であって、実際にそのような立場にたったときに首相がどうするかはわからない。ぼくが上に書いたようなことが妄想妄言に終わるなら、そのほうがよい。ここで言いたいのは、ほんらい民主主義政治とは、政治家個人にすべてを預けてしまうのは危険なため、制度のレベルで一定の歯止めをかけておくのが鉄則であるが、特措法にもとづく緊急事態宣言ではそれが緩いということである。だからこそ、一部の政治家は政治システムによる歯止めを嫌い、言を左右して、その種の条項を含めるのを避けたがる。首相が政治家としてどちらのタイプに属するかは、言うまでもなく誰でも予想がつくだろう。
熱狂しているとき、ひとには物事のひとつの面しか見えないものだ。だが、むしろそういうときこそ立ち止まり、世界はつねに多面的で多元的であり、物事はいま見えているのとは異なる側面をもっていることを思い出してよいのではないだろうか。少なくともぼくたちにとっては、それを思い出しておいて損することは、ひとつもない。