ある授業でレポート課題を出した。与えられたテーマにかんして身近なひとに話を聞き、それをA4一枚にまとめる。簡単なものだ。
提出されたレポートをチェックしていると、いくつかの単語がバラバラとならべられているだけのものが現れた。見出しはおろか、氏名や学籍番号すら記載されていない。端的にいって、それはレポートの体をなしておらず、せいぜい私的な覚書きとでも呼ぶしかないような代物だった。しかも、たまたま一通だけ紛れ込んでいたというのではない。似たような状態の「レポート」は数通あった。
驚くべき話ではない。予想されたことだった。試しにつぎの授業で、受講する20名ばかりの3年生に訊ねてみた。レポートの書き方を教わったことのないひとは? 案の定、数名が手を挙げた。
レポートの書き方を教わったことがないというかれらの言葉は本当だろう。不幸なことに、そうしたことを教わる機会にめぐりあわないまま、大学生活の二年数か月が経過してしまったのだ。かれらは、そもそもレポートには「書き方」というものが存在するのだということすら理解していないようすだった。入学以来レポートを一度も提出しなかったわけではないだろうから、今回のような「ベイビートーク」を適当にならべることで、しのいできたのだろう。
こうした現象をとりあげて、そこから「レポートすら書けない昨今の大学生」という図式を一般化し、「大学生はバカになった」と切り捨てるのは、しばしばエライひとの口から語られるありがちな言表パターンである。たしかに三年生にもなってレポートの書き方も知らないのはどうかとおもうのだが、反面、学生にばかり責任を押しつけるのも、ちょっと違うような気がする。
念のためにいっておくと、ここでいう「書き方」とは、出題されたテーマにたいして、こんな内容をこんなふうに書けば必ず及第点がもらえる、というような予備校的必勝マニュアルのことをいうのではない。そうではなく、ここで問題にしているのは、課題について調査した結果を、レポートという形式にどのように表現し定着させるのかという、その「仕方」のことである。
学生がものごとの「仕方」を知らないのは、それに気づく機会もなければ、教えられることもないからだ。それでは、なぜそのような事態が生じるのか。その要因のひとつには、教える側に「仕方」の重要性が十分に認識されていないことがあげられる。
大切なのは、ものごとの「仕方」ではなく、知識という「内容」だという意識は、いまもエライひとびとのあいだで通有されているといえるだろう。裏返せば、それは勉強の「仕方」などわざわざ教えるものではないし、教わるものでもないという見方に立つことでもある。じっさい、ぼく自身、はっきりだれかから直接教わった経験があるわけではない。勉強の「仕方」は、先生や先輩の背中を見て、じぶんで覚えるものだというクリシェは、なるほど現実の一面を突いてはいる。
だが、実践コミュニティ論的に考えれば、こういう方法で「仕方」を学ぶためには、たとえば職人や伝統芸能の世界における徒弟制度のような、それなりに濃密な人間関係のなかに身をおくことが不可欠だ。かつて大学教員と学生との関係を「師弟」と素朴に前提できたころは、それがそれなりに機能していたのかもしれない。「大学では勉強の仕方を教えない」といって『知的生産の技術』を執筆された梅棹忠夫先生は、多忙を縫って、しばしば若手の研究者の原稿を読んでは朱を入れて指導していたというが、こうしたスタイルは今西錦司・桑原武夫といった京大人文研の系譜の伝統らしい。しかし、今日でも大学が、以前と同じような場として機能しているといえるだろうか。好むと好まざるとにかかわらず、たぶん疑問符をつけざるをえまい。
師弟関係のなかでは、「仕方」は暗黙に継承される。だから、それは不可視のものだ。それゆえ、ともすればその重要性は相対的に軽んじられがちだ。良くも悪くも、かつてのような濃密な人間関係がもちにくくなった今日の大学で、かつてと同様に知識という「内容」だけを前景化させていても、うまくいくはずがない。かといって、一部に見られるように、「勉強の「仕方」についての勉強」をそれだけとりだしてカリキュラムに落とせば、えてして「マニュアル化」されてしまい、それ自体が目的化される結果を招くだろう。だから、それが最善のやり方かどうかはともかく、さしあたって教員がそれぞれの授業のなかでそれぞれの「仕方」を意識的に教えていくのが現実的であり、本来の意味を損ないにくいのだとおもう。
ちなみにぼくは、1, 2年生を対象にした授業で、メディア論の基礎的な知識という「内容」とあわせて、レポートの書き方はもとより、調べる・発表する・議論する・まとめるといった諸々の勉強の「仕方」を教えることにしている。ぼくの周囲でも似たようなことを試みている大学教員は少なくない。大変なわけである。
いずれにせよ、「仕方」を学ぶのは、一般に信じられているような、たんに技法を摂取すること、なのではない。「内容」はそれ単独で成立しているわけではなく、それを支えるさまざまな「仕方」と相互依存的な関係にあるというメディア論的事実を身体に刻むことでもあるのだ。その意味で、「仕方」は思想の根源にかかわっている。「仕方」にかんする二つの理解のあいだに横たわる違いは、梅棹さんの『知的生産の技術』や『理科系の作文技術』(木下是雄)と、昨今の書店に山ほどあふれる『××の技術』『××の技法』の類の書名をもつ書物の凡百との決定的な違いに通底する。