マイケル・ムーア監督が資本主義の本丸に乗り込む! というような勇ましいコピーに「踊らされ」日比谷まで足を運んだ。観客の多くは中高年男性であった。だがぼくとしては、とりあえず大学生こそぜひ鑑賞したほうがいいようにおもう。かれらがこの先剥きだしでさらされつつ生き延びてゆかねばならない社会とは、つまりはこういう社会なのだから。
「本丸」というのは米国のグリードたち、つまりウォール街を牛耳る大手のグローバル金融機関である。強欲に強欲を重ねるかれらは、市井の、相対的に立場の弱いひとたちを徹底的に絞りあげ、当事者にも仕組みが説明できないほどすばらしくややこしい金融商品を開発してはリスクを先送りにし、本来は社会的に分配されるはずの富を独占してゆく。じぶんのカネだけでなく、ひとのカネをも愛そうとしている。それが資本主義暴走の源だ、という明快な主張が貫かれる。
その論拠としてさまざまな実例が示される。銀行に担保としてさしだしたため自宅を出なければならないひと。武装した保安官が明け渡しの執行にやって来る。玄関をあけなければ斧で叩きあけられ、戸外へ出るよう促される。ある日突然解雇を申しわたされるホームセンターの社員たちの姿も映される。かれらは相応の補償を求めて店に立てこもり始める。パイロットの年収が1-2万ドルにすぎないという事実にもおどろかされる。もともと周縁的な立場の者がさらに追いやられているだけでなく、中間層がやせ細っているのだ。じつは、すべてを独占する富裕層は米国社会全体の1%でしかないという。かれらは自身のことを21世紀社会に生まれた新貴族と見なしたがってさえいるという。
では搾取されつづける99%のひとびとは、1%の富の独占者たちに、なぜ不満をぶつけないのか。それは、努力を続けてさえいればいつかその1%の仲間に入れるかもしれないという淡い期待があるからだという考えが示される。いわゆる「アメリカン・ドリーム」というやつだ。もちろんそのようなことは事実上ありえない空手形にすぎない。1%は誰にでも開かれているという建前になっているが、機会の平等が保証されているわけではないからだ。だからアメリカン・ドリームは、99%にとってドリームであると同時に、そこに到達できなかった者として無能の烙印を押す閻魔大王のようなものである。アメリカン・ドリームなどただの夢幻でしかない。だから、新貴族がもっとも怖れているのは、民主主義の発動である。99%だろうが1%だろうが、そこでは同じ1票を行使する権利を有しているのだから。
作品は例によってムーア監督自身のナレーションに沿って展開してゆく。あたかもムーア自身の調査や思考の過程を一緒に追体験しているかのような気持ちにさせられる。ムーアの主張は明快でそれが隠されることもない。こうしたスタンスは、ムーア作品に共通するものであり、作品にわかりやすさを与えることに貢献している。と同時に、物事をともすれば実体以上に簡単な構図に落とし込むという面があることも否定できない。
たとえば、ムーアが提示するオルタナティヴだ。それは穏健な資本主義の実現であり、それを基盤とした市民社会である。その考え方は、作品中にも予防線が張られているように、それは米国社会がほとんど反射的に嫌悪する社会主義に近い。度をこした資本主義は、けっきょくすべてを荒廃させる。たしかにそのとおりだ。
だが歴史が教えていることは、にもかかわらず、資本主義は過熱し暴走し、社会と多くの人生を暴力的に傷つけることをくりかえしてきたという事実である。資本主義の歴史とはバブルへいたる過程とその崩壊の反復だ。その波のなかでわたしたちは性懲りもなく、振り落とされてはまた踊ることをくりかえしている。
その原因は、わたしたちがたんに歴史から学ぶ謙虚さを忘れがちであることだけにあるのだろうか。ちがう。それは資本主義のメカニズムそのものに根ざしてもいる。資本主義の原動力は「欲望」だ。欲望が欲望を生むしかけはそれ自体が過熱すれば異常とよばざるをえないが、しかし欲望をもつこと自体をただちに不健全だと断罪はできまい。ムーアは、欲望に取り憑かれた「本丸」を糾弾し、その欲望を一定程度抑圧せよという。それは妥当な理念であろうが、しかしはたしてその先に具体的な方図が見出せるのか。
むしろこの作品の美徳とよべるのは、こうした話題をNHKやBBCのつくる番組のようにしたり顔で語ってみせるのではなく、とことん娯楽として愉しめる形に仕上がっている点であろう。それは、ラストのシークエンスに顕在するような批判性に裏打ちされたユーモアの感覚や、ムーア自身がその巨体を揺すらせて実際にアタックしてみせるその「運動」の確からしさによって支えられている。