デジタルストーリーテリング

冬至の昨夕、恒例のデジタルストーリーテリングの発表会をおこなった。例によって2年生の授業で、各自がじぶん自身にとって切実なものを主題に2分ていどの映像作品をつくる。

今年は全体に最後までよく粘って考えた作品が多く、なかなか質が高かった。シリアスな主題ばかりではなく、二十歳の誕生日に初酒を飲んだ顛末やら、バイト先でリストラにあった話やら、SMAPをどれほど愛しているかを切々と訴える作品やら、大笑いさせられる作品も少なくなかった。

毎年これをやっているのだが、年によって学生たちのつくる作品の傾向はずいぶん異なる。生真面目な作品ばかりという年もあれば、今年のようにはちゃめちゃぶりの際だつときもある。ふしぎなものだ。微修正をくわえているとはいえ、同じようなカリキュラムで実施しているのに。

個人的には、ちんまりとまとまった作品を見せられてもあまり愉しくはない。「まとまった」といっても所詮は素人レベルでしかないということもあるが、それはまあ当然のことだ。理由はもっと別なところにある。学生が(勝手に)先まわりしてこしらえた「教師の求めているもの」を「どうです? これで合ってるでしょ」とばかりに確認させられているような気持ちになってしまうからである。現に、そんな態度が習い性になっている学生が少なくない(というより、びっくりするくらい多い)。学生のせいというだけでなく、たぶん学校教育のあり方そのものに何か根本的な問題があるのだろう。

見ていてうれしくなるのは、出来が少々わるかろうと話が破綻してようと、とにかくこれを徹底して表現するのだというガッツのある作品のほうだ。そうした姿勢には、はるかに大きな伸びしろが感じられる。「作品」をつくりたいのならば、その形はどうであれ、こうした姿勢は不可欠である。今年の受講生がそのことに少しでも気づいてくれたのなら、もう十分な成功だとおもう。